「ナボイ劇場建設秘話」シリーズ第1回

ウズベキスタンの人々とナボイ劇場建設に携わった日本人(兵士)との当時の交流の様子、秘話など建設現場責任者だったお爺さまのお孫様で現在日本在住のNodiraさんに執筆を依頼しました。

私はタシケント出身のノディラと申します。私の祖父と日本人の兵隊さんの友情についてウズベキスタンに旅する皆様にお伝えしようと思っています。

「私のなかで生きつづける、日本への想い」


世界では、毎日たくさんの出来事が起こり、
この瞬間は、すでに過去のこととなってゆく。
しかし、人が人を想う心は
たとえ戦争で辛い壁ができようとも、
未来永劫、国境を越えて語り紡がれてゆくことだろう・・・

私は生まれた頃から、ずっと祖父と一緒に暮らしていました。祖父との思い出は、どれもこれも楽しかったことばかりです。

生前の祖父の職業は、建築家でした。ウズベキスタンのタシケントに現存する、たくさんの公共施設の建設に携わりました。それらの話を祖父は、まるでおとぎ話を聞かせるように、毎夜優しく話してくれました。

なかでも「ナボイ劇場を日本人と一緒に建てた話」は私の一番お気に入りの話なのです。

建設に着手した1945年は、ウズベキスタンがまだソビエト連邦の一員だった第二次世界大戦直後で、タシケントにもたくさんの日本人捕虜が収容されていました。日本人の勤勉さを知っていた祖父は、ナボイ劇場建設にあたり、「せめて日本人が少しでも快適に暮らせるように配慮をしてほしい」と政府に手紙を書いて働き掛けました。

当時、彼らが収容されていた収容所は、暮らすには非衛生的で窮屈過ぎました。しかし、収容所以外の場所に日本人捕虜が勝手に住むなどということは当然禁じられていたため、祖父は当時自分が住んでいた町の、少しでもましな場所に住まわせたいと直訴していたそうです。

その間祖父はことあるごとに日本人を家に招き、居間には暖炉が灯されて、笑顔が溢れていました。

お互いに言葉も立場も違いましたが、気持ちのなかでは次第に雪解けてゆくことを感じていたのです。そして祖父は、ある一人の日本人と親しくなりました。はじめは身振り手振りでの会話でしたが、なぜだかすんなりと通じていたのでしたから驚きでした。

祖父、「祖父我々には心があったから会話できたのだと思う、大切なのは心なのだよ。」と何度も反芻するように話していました。

そうして祖父はこの同じ歳の日本人に親愛の情を込めて「ウスタ」という名前を贈り、友情を深めていったのです。お互いの言葉を理解できるようになるのと同時に友人から親友へ関係を育んでいったのでした。

つづく(次回の配信をお楽しみにしてください。)

この物語は絵本「アミノフと兵隊さん」として2018年に自費出版されています。

アミノフと兵隊さんオフィシャルサイト


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